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タイトル: 「前方後方墳」出現社会の研究
その他のタイトル: A study of the communities producing earliest Squared-Keyhole-Shaped tumuli
著者: 植田, 文雄
発行日: 2007/03/23
抄録: 弥生時代の首長墓である墳丘墓と古墳の概念規定は、揺れ動く時代区分論ともあいまって、いまだ定見をみていない。大和で巨大前方後円墳が出現する直前に、日本列島各地では形態の多様な首長墓が築かれるが、そのうち、最も広範囲に分布する前方後方墳にかかる研究が深まっていないこともあって、古墳時代初頭、実年代では3世紀代の社会像が謎に包まれている。 そこで、本論では次の5項目について研究をすすめた。 1点目は、墳丘墓と古墳の概念規定を、発掘調査による遺構の情報から示すこととした。筆者の採用した、周濠排土の土量計算から墳丘を立体的に復元する方法では、墳丘が失われていても残された周濠規格から、墳墓の分類が可能となった。 2点目は、前方後方墳の出現と展開過程を出土土器から再検討し、その起源地が何処にあって、どのように列島各地に展開していったのかを考究した。 3点目は、前方後方墳と集落遺跡との関係性を、神郷亀塚古墳と斗との西にし遺跡の資料から分析し、古墳出現期の社会像を考察した。 4点目は、近江と北陸一帯に出現期の前方後方墳が多いことを受け、前方後方墳が生成された史的背景を考察した。琵琶湖と、日本海をめぐるこれら地域の関係を考古資料から解読し、琵琶湖の水上交通路と陸路など近江の地理特性から、大陸と結ぶもう一つの流通動脈を提示した。 5点目は、既往にうたわれる「前方後円墳体制」のような一極型の古墳時代社会が、真に列島で実在したのかを検証し、けっして「倭の社会」と一括できない、列島の地域史像を描いた。 以上の研究の結果、前方後方墳は弥生後期の墓制から生まれ、近江を中心に首長墓として確立したことが明らかとなった。そして広域拡散の背後に、湖上交通と陸路の情報網である日本海・琵琶湖ルートの存在が確認された。 また環琵琶湖域の考古資料では、鉄を受容する以前に青銅器鋳造技術が淀川水系を遡って湖東に到達したことが示され、これら二種の金属器生産体制と交通力を背景に湖東では前方後方墳を築き、大陸由来の木槨墓をしつらえたとみた。それは弥生集落が解体・再編され、新たに生まれた首長の求心力が高まりつつも、定型化した前方後円墳や前方後方墳が出現する直前の社会である。弥生後期に方形墳墓を築造した、日本海沿岸部の潜在的な 力を背景に、環琵琶湖域で前方後方墳が生み出されたのである。 列島全体で出現期前方後方墳を通観したが、「前方後円墳体制」の前段階すなわち庄内式併行期、実年代では3世紀代に、すでに卓越した規模と高さを備えた高塚墳墓が生成されていることから、もはや当該期は弥生時代ではない。土器様式の変革もここに画期がおかれ、当該期のこれらの実態を過渡期の一現象として等閑に付さず、古墳時代初頭の社会像として明確に位置づける必要がある。そこで提起したのが、「前方後方墳」出現社会の二つの構造図である。 先学の描く「古墳の階層構造」図では、前方後円墳を頂点に前方後方墳や他の墳形墓を下位に置いたピラミッド構造となるのに対し、「前方後方墳」出現社会の典型はテーブル形にイメージできる。もう一つは、前方後方墳C型を築造する社会像である。前方後円墳ほどではないが、高墳丘の築造にあたる労働力を動員した支配・被支配関係が内在し、その社会の構造体は小型のピラミッド形で示される。方形周溝墓を下位におくが、同一墓域には築造されず、規模の点でも階層性が認識できるものである。これを小型ピラミッド構造とする。この社会は、河川流域程度の地域内における優位性を示すものであっても、隣接した同質のテーブル構造社会より特段優位に立つものではない。小型ピラミッド構造の社会は、流域を異にする別集団と敵対的でなく、緩やかな紐帯で結ばれていたとみられる。 最終的に提示したこの理論は、既製の当該研究にない新しい視点である。 これら二つの構造体こそが、次に大型の前方後円墳を生み出す、「前方後円墳体制」の基盤となったのである。これらを、従来グレーゾーンであった3世紀代にはさみ込み、既存の考古資料を丁寧に再評価することによって、当該期の史的理解が深まることを示したい。ある日突然、巨大な前方後円墳が生まれたのではなく、地域内での成熟を示すテーブル構造段階を経て、前方後円墳が首長墓とされる古墳時代社会が生成されたのである。また、今回提起した「前方後方墳」出現社会の二つの構造体は、両者の組み合わせによって、より広範な地域、たとえば「近江」や「上野」・「下野」など地域内の個別性や多様性を表現することも可能で、従来見落とされてきた「前方後方墳」側からみた古墳時代の重層性を、鮮明にできると思われる。 中国や朝鮮半島からみた場合、地理的には北近畿・北陸が列島の窓口であったのは明らかで、逆に弥生時代から中枢部と見なされてきた、大和・河内など「畿内」は情報源から遠隔地となる。3・4世紀代の大和の首長は、情報と交通掌握の点で優位に立っていたわけではない。瀬戸内海沿岸部や大和とは異なるもう一つの中枢として、日本海沿岸部と環琵琶湖域を軽視できなかったと考察できる。 淀川水系の源流である環琵琶湖域は、大和や「畿内」の首長にとって北近畿・北陸と結ぶかなめにあり、さらに日本海側の首長からみると、大和はむろん太平洋側や東国へ向かう交通要衝となり、近江のもつ地理的特性が発揮されていたことを確認できたのである。
内容記述: 人文論第3号
NII JaLC DOI: info:doi/10.24795/24201o006
URI: http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/handle/11355/623
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